聖句からみるテニスの歴史。

ラケットを取る者はラケットによって滅ぼされるであろう。

この有名なワンセンテンスは、言わずと知れたテニスの父であるテニス=ラケットの発した聖句ですが、この聖句が人々の知るところとなったのは、ほんの数百年前だったというのは余り知られていない事実です。事の起こりは1022年、それまで協会によって秘匿されていたこの聖句は、中世ヨーロッパの聖テニス協会会長ブチャ=ムーンサルトによって発表されたことで一挙に世に広まりました。彼は、この発表によってそれまで永らく続いていた、あの不毛なテニス大論争に終止符を打たんとしていたのです。あらゆるテニス教徒にとって、神同然であるテニス=ラケットの名は絶対。彼は事態の収拾を疑っていませんでした。しかし現実は無情なもの。彼の一大発表は不毛な争いを激化させるだけに終わってしまったのです。一体何故でしょう。

実はこの、韻律を意識した短いセンテンスはあまりにも多様な解釈が可能であり、それゆえ各テニス論者は皆こぞって自己流の解釈を施した上で、テニス教徒達への聖句伝達を行ったのです。そう、人道主義的テニスプレイヤーと軍国主義的テニスプレイヤーは、共にこの聖句によって自らの行動が是認されると考えることができてしまったというわけです。つまり人道主義的テニスプレイヤー達―俗に『青学派』『手塚主義』等と称される人々―が「これは、ラケットの鈍器としての使用を避けるべきだという、テニスプレイヤーへの明白な警告である」と主張することができる一方で、軍国主義的テニスプレイヤー達―俗に『立海派』『悪魔崇拝』等と称される人々―の方は「これは、サーブしてくる敵を滅ぼす為にラケットを握るテニスプレイヤーの必要性を説いているのだ」と主張することができたのです。

このように、他人のあらゆる発言を自分に都合のいい方向で解釈しラケットを握るテニスプレイヤーのことを、現代では(皮肉の意味を込めて)『オプテニスト(テニス楽観主義者)』というのですが、この辺については既に皆さんが各方面で聞き知った通りであり、改めて説明する必要はないと思います。願わくば、このような醜い争いが現代で再び勃発しないことを―