極刑を軸とした東西文化相互理解可能性についての序論

「異端の歴史」などで中世ヨーロッパについて学んでいる際によく目に付くことであるが、教会は火刑を好み過ぎである。火刑、火刑、また火刑。恐らく平凡な良心を備えた現代人ならば思わず顔を背けたくなるような歴史叙述であろう。しかし、ここで私の脳裏を霞めたのは『平成の切腹ファッカー』の異名を取る新連載「サムライうさぎ」のことであった。あの作品の切腹ロックンロールはまさしく中世ヨーロッパの火刑ターボそのものであり、ならば中世ヨーロッパを舞台とした『ビリーバーたぬき』を作成することもまた可能なのではないだろうか。つまり、サムライうさぎでは「切腹」が占めていた代数Xに「火刑」を代入すればいいというわけだ。事実、中世ヨーロッパにおいて論争が火刑をもって決着しない確率など、中学テニス界において試合がダウンをもって決着しない確率と同様、まさしく微々たるものなのである。詰まるところ『暗黒の中世』においては、歪んだ知性に基づく『排撃リパルス』を回避するプロテクション(青)は勿論の事、短絡的な憤怒に基づく『火葬インシネレート』を防ぎきるプロテクション(赤)が必須要件とされたのである。そして、そのニーズに答えんが為生まれたのが、古今東西あらゆるプロテクション学に通じたプロテクション・マスター…通称プロテスタントである―等と言われてハイそうですかと鵜呑みにする、哀れなゆとり教育の犠牲者達は直ちに自分の半生を振り返って深く反省し、プロテクション(嘘)を身につけるべきであろう―とまで言われた時、プロテクション(嘘)とは嘘に対するプロテクションなのかそれとも虚偽の―つまり存在しない―プロテクションの事なのかを即座に疑う精神のことを我々は理性と呼ぶのである。