緑の瞳・月影

緑の瞳/月影 (岩波文庫 赤 726-1)

緑の瞳/月影 (岩波文庫 赤 726-1)

ここ数日着実に過疎サイトへの道を突き進む我等が「覇王翔龍撃」。なんと今日の御題はおそらく誰も読まないであろう岩波文庫の感想だったりする。一体このサイトはどうなってしまうのか。とはいえ読んだ本についてはできるだけ逐一書いておきたいので色々書くよー。


現代日本で言う所の『チューガクニネンセー』を眼の敵のようにした幻想破砕系の作品が多い。一体全体君の過去に何があったっていうんだ!

  • 青年が美女の幻に求められるままに抱き寄せようと歩み寄った所、芸術的なまでに足を滑らせて湖の藻屑となった『緑の瞳』
  • 青年が月影を美女と勘違いして追い求めた末に廃人となった…もとい「真の知性を得た」『月影』
  • 青年が美女の幻に翻弄された挙句、逃げ遅れた幻を弓矢でSATUGAIしたところ実は本物だった『白鹿』
  • 女人像に恋した青年が、その亭主と思しき戦士の彫像に嫉妬して嫌がらせをしたところゴッドハンドクラッシャーをお見舞いされた『口づけ』
  • 青年が見栄を張って従妹の肩衣を探しに山に出かけたところ「闇への追放」で除去され、意地悪な従妹もまた「精神錯乱」を打ち込まれ発狂する『怨霊の山』
  • 夢の為宝物を追い求めた姉妹が潮流操作される『地霊』

見事なまでに『チューガクニネンセー』狙い撃ち。だがそれもこれもこの人なりの妥協のようなものだったのかもしれない。ペッケルの根底には『寂寥感』とも言うべき感情が見て取れた。おそらくペッケルは、『チューガクニネンセー』的な幻想の世界を愛しつつも、ただ美しいだけの作品は書けなかったんだろう。現実の哀しさと空想の美しさを融合させることがこの人なりの世界への取り組み方だったのかもしれない。上に挙げた以外の作品を見ても、露骨に過去形を多用した作品が多いのは多分生まれ持った寂寥感の現れなんじゃないかな。

その懐古主義溢れる作品群に対し、正直途中まではあまり評価していなかった。だが最後に掲載された『枯葉』を見て少し認識が変わった。コレは一言で言うと「枯葉を擬人化した作品」なのだがその視点の設定が実に上手い。少なくとも朝目新聞あたりにありがちな意味のない擬人化とは一線を画し、見事に幻想としての枯葉の「環世界*1」を形成できていたと思う。

『だって、それがだめなんですもの。いまこの頭の上で、さやさやとさやめく木の葉の枯れて落ちるころ、あたしも死んでいきます。』

病に伏せる少女はこう語る。だが枯葉にとってはこう聞こえる。

「あたしも聞いた。あなたも聞いたのね。あたしたちみんなぞっと身を慄わして、黙ってしまったわ。あたしたちがいずれは枯れる、死ななきゃならない。」

「白い蝶々や水色のとんぼたちも、自分の身がわりに黒い虫を残して、逃げていったけれど、それがわたしたちの体の筋を食い荒らし、背中におぞましい蛆を背負い込ませたんだわ」

「あの女のひとも、人の世からから離れていったのね。きっと、あの新しいお墓のなかで眠っているのよ、あたし、ちょっとの間その上で休んだの」

「ああ!あの少女も眠っているのね。とうとう永遠の憩いにはいったのね。でもあたしたち、いつになったら、この長い旅が終わるのかしら。」
「けっして終わることがないでしょうよ。」

ここまでくるともはや枯葉はただ枯葉だけを意味しているわけじゃないんだろう。多分。

*1:無論これは「枯葉にも意思がある」という初期設定あっての環世界。