折角の機会。ちょっと↓では言葉が足りてない気するので纏めてみた。

(先に言っておくが、僕はMTGこそが正しいとかそういう陳腐な次元で話をする気は毛頭ない*1。これはもう一歩踏み込んだお話。「自分が正しいと言い張る為の条件」*2とでも言うべきかな。自身が小説を書く身の上で無かったならば一生考える事はなかったような気がする。正直この点に思い当たった為に最も首が締まっているのは他ならぬ僕自身なんだ。なんかいい落としどころないんかな。)

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(ただでさえ長いので前置きは省略)そりゃ遊戯王とMTGで相違点があるのは当然。だがそういう次元で【ドローゴー】を考えるとどうも頭が頭痛でガンガン痛くなるんだ。

もし誰かが遊戯王OCGの特性にあったオリジナルデッキ、それも自分のターンに何もしないことで利益を得るカウンター罠主体のオリジナルデッキを作り、「それがたまたまMTGのドローゴーと概念的に何処か似ていたから」という理由で、その誰かが自分のデッキを【ドローゴー】と名付けたのなら、僕は文句をつけなかっただろう。相違点についても難なく受けいれた筈*3。しかし遊戯王wikiを見る限りあの【ドローゴー】の乱雑さは「MTGから見様見真似で作りました」といっているようにしか見えない。カードの特性やアドヴァンテージを無視したデッキ解説が平然と*4行われているのがその証拠だが…コレは遊戯王とMTGの差異を無視したが故に起こる不完全な輸入でもある。或いは自分のターンに何もしないという見た目にばかり目を奪われ、それが何を意味しているかを無視しているとも言える。だからこそ、あたかも「パーミッション」≠「モンスター0」=「ドローゴー」のような意味のわからない無駄な記述が生まれるのだ。そのような「不完全な真似事*5」レベルに留まっているにも拘らず「MTGと遊戯王OCGは違うから」というのは何かが違うと言わざるを得ない。根本が猿真似である以上「違う」の一言だけでは済まされないし、加えて不完全性を放置しているようでは「独自性」を主張するわけにもいかない。デッキの独自性はそれが有用である場合にのみ主張できるのだ。この辺につき最近よく頭が痛い。

遊戯王OCGにおける【ドローゴー】は、例えるなら、「インドでカレーを目にしたイギリス人が本国に戻って見様見真似のカレーを作ったがそれはインド人にとっては*6とてもカレーと言いえるものではなかった」状態。無論ここで一念発起して「イギリスカレー」に当る【ドローゴー】作成に勤め、その結果「これが遊戯王OCG式の【ドローゴー】だ。これが俺の解釈だ!」と主張するにふさわしい【ドローゴー】が生まれたのなら僕はここでも文句をつけなかったような気がする。世の中言ったモン勝ちだ。だが、遊戯王wikiを見る限りそうではなかった。未だ見様見真似で思想の無いデッキに留まっているとしか言いようが無い状態。だからこそ【ロック】の亜種を無理矢理【ドローゴー】に含めると言った謎の事態が起きる。そこには「理解」もなければ「解釈」もないという非常にカオスな状態が広がっているのだ。故に説得力が無い…いや、正確には僕自身を騙せない。

「見様見真似だが全くもって真似切れていない。加えて独自性もない。」のが遊戯王wiki*7で説明されている【ドローゴー】なのだと僕は思う。

  • 強い【ドローゴー】→【ロック】のようによりふさわしい名称がある→無理に【ドローゴー】を名乗る意味が無い。
  • 弱い【ドローゴー】→MTGを真似きれていない&ドローゴーを名乗るに適した独自のコンセプトが無い→【ドローゴー】を名乗るには未だ未成熟。

*1:そんな義理は無い。わかると思うが一応。神経質。

*2:果たしてそれで人は説得されうるのかっていうお話

*3:軸が共通している場合こそ最も受け入れやすいのだ。【ビートダウン】とかな。

*4:一応譲歩はある。

*5:換言すると「本当は同じ物を作りたかったが風土的にどうしても似ない部分があった。この点と正面から向き合うことを避けたまま同じものだと言い張っている」ぐらいかな。

*6:豆知識:インド人は自分達が作るものをカレーとは言わない。あくまでコレは「例え」な。伝わりゃいーんだ。

*7:あくまでこれは遊戯王wikiを見た上での考察であることに注意。或いはめたぽ作品を見た上での感想。もしかしたら遊戯王で【ドローゴー】を“言い張る”にふさわしいデッキがこの世の何処かにあるのかもしれない。