「何の話だ?」「色々だ。多分疲れてる。」

「お前は『お前は[お前は{―は〜しているだけだ}という事によって対象の矮小化と自らの精神的地位の相対的上昇を図っているだけだ]という事によって対象の矮小化と自らの精神的地位の相対的上昇を図っているだけだ』という事によって対象の矮小化と自らの精神的地位の相対的上昇を図っているだけだ」…以下無限ループ。この所謂「だけ論法」の『―』『〜』部分にはお好きな主語述語を入れとくれ。Googleで漁れば脳が腐る程の該当例が見つかるよ。
一人一人の言は皆一理ある。当然だ。本物の「命知らず」か或いは「間違う事それ自体が計算」でなければ、それなりの能力を前提とした諸々の意見にはどれも大抵一理ぐらいはあるもんさ。問題は…だ。その理が美しいかどうかだと思うんだがな。「価値」が「虚構」に過ぎぬと言うのなら、何故その「虚構」たる「価値」は成立し得たのか。或いはそれを超える価値を生み出す事は果たして可能なのか。其処が問題だ。むしろ其処が問題でなければ詰まらないんだよ。いい加減飽き飽きするんだよ。僕が*1

「―は〜だけ」と評して満足するのは一体何病に当るのか。そしてそれを光の速さで「―は〜だけ」と批判するのは一体何病に当るのか。或いはその事態を恐れるあまり無駄に心を痛めるのは一体何病に当るのか。

*1:僕が飽き飽きしないタイプの人間ならば何の問題もなかったのだが。