無題

場末のネット小説とはノ―リアクション仮面舞踏会で尾崎豊を熱唱するようなもの、という結論A定食。それゆえに、少しでもウケたなら針小棒大に馬鹿みたく意味すら求めず騒いで欲しいというのが欲求として膨らむのだろうなと自己分析しました。結局のところ、(執筆その他は楽しくとも)掲載自体が一種の罰ゲームみたいというか、所謂赤字スタートなんだよなこの稼業。掲載直後から5時間ぐらいは本当に罰ゲームだね、これは。自分の力量を根拠もなく信じれるようなお花畑脳なら大丈夫かもしれないけれど、僕みたく自分の腕に何一つ信頼を置いていない人間にとってはまさにマイナスからのスタート。そもそもそれなりの手間をかけたネタを思い切りぶつけて「シーン」となってる時点で死にたくなるだろ、普通に。頑張った感想とかもらえたら確かに嬉しいけれど、それ以前に「シーン」が打破されるかどうかという次元で神経を削る闘いを強いられているわけだ我々は。しかも恐ろしいのは、何かの間違いで運よくウケたにも関わらず「なんか書くのは気が引けるから」とかそんな理由での「シーン」だったことが後から判明した場合。こういうときはもう何も信じられなくなる。「シーン」を悔しさと定義して次ウケるためのバネにしようとしたところ実は空しさだったのでスプリングが抜けていたみたいな。結果、「あれは僕を傷つけない為の社交辞令で実はウケてなかったんだ」と結論づけ、お世辞すら素直に受け取れない人間不信が誕生するのです。そのぐらい「シーン」には力があるのです。いやホント、「シーン」は人格を変えるね。「今回色々反省点はあるけれどとりあえず「シーン」じゃなくてよかった」みたいな総活が日常と化してるから、実際。ネットは鉄の板より厚い。腕がないなら尚更だ。