無題

 気が遠くなるくらい大昔、タクティクスオウガの高クオリティを一通り味わい、その後多種多様な方面からあのゲームが大絶賛されているのを知った時、納得すると同時に「一人用ゲームで僕が味わえる喜びはここら辺が限界か」と奇妙な確信を抱いた事がある。もっとも、それは捉え方の問題だったのだろう。「あれだけ過酷な世界観と人の繋がりを描いておいていきなり復活呪文はないだろう」「石化を覚えてから戦う楽しみが消えていた」「主人公とプレイヤーは前提を共有できていない以上、大量虐殺肯定OR否定という“選択”制度にはどこか違和感がある」といった個人的欠乏から更なる理想のゲームを追い求める精神が湧いて来るかどうか*1。或いは、あくなき補完精神が働くか否か*2。少なくとも僕にはなかったようだ。あの媒体に魅力を感じなくなって久しい。あの年以来ゲームから徐々に離れていったのだったか。飽いていったのだったか。もっとも、人生は長い。5年後くらいに、「マリオが俺を呼んでいる」とか突拍子もなく言い出すのかもしれないが、それはまた別のお話。
「つーかデニムじゃなくてマリオかよ」「そりゃマリオの方が10ランク上だ」

*1:目に見える例だと、縛りプレイやら擬制プレイやらがそれにあたるのかな。つっても、アレらは結構色々な理由で行われているようだが。

*2:要は、「いや、アレもまた面白い試みだぜ」。